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仙台高等裁判所 昭和57年(ネ)512号 判決

主文

原判決を取り消す。

被控訴人承継人らの請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人承継人らの負担とする。

事実

第一  申立

控訴代理人は、主文同旨の判決を求め、被控訴人承継人ら訴訟代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

第二  当事者の主張と証拠

双方の主張と証拠の関係は、次項以下のとおり、双方の当審における主張と認否、反論を補足し、当審における証拠関係が、当審記録中の証拠目録のとおりであるほかは、原判決の事実摘示のとおりであるから、ここにその記載を引用する。

第三  控訴人らの補足主張

一  本件各土地(原判決添附、別紙目録記載の各土地)取得の経過

本件35ないし38の各土地は訴外佐藤ゆう(「ゆう」)の所有であつたところ、ゆうは昭和一七年三月二七日右各土地を控訴人らの被相続人徳助に贈与し、昭和一七年三月二八日その旨の所有権移転登記を経由した。また本件1ないし34の各土地は訴外佐藤吉太郎又は被控訴人宏助の所有であつたところ、吉太郎又は宏助は同じころ右各土地を徳助に贈与し、昭和一七年三月二四日宏助から徳助への所有権移転登記がなされた。そして昭和三六年三月二二日徳助死亡により控訴人ら及び訴外佐藤よしが相続して右各土地の所有権を承継取得した。

二  時効取得について

1  本件各土地は、前記のとおりいずれも昭和一七年三月中に、徳助のために所有権移転登記がなされ、徳助はその頃から本件各土地の自主占有を開始し、同人の死亡した昭和三六年までその占有を継続し、その後は控訴人らがその占有を承継している。

したがつて、徳助及び控訴人らについて本件各土地についての取得時効が完成したものというべきである。

被控訴人宏助が昭和二三年に復員したのち、本件各土地を所有の意思をもつて占有したとの事実は否認する。所有の意思の有無は、占有取得の原因である権原の性質によつて客観的、外形的に判定されるべきものである。

しかるに、本件35ないし38の土地がゆうから被控訴人宏助に贈与された事実はないし、本件1ないし34の土地は前述のとおり徳助に贈与されたのであるから、被控訴人宏助がこれを自主占有すべき理由はないのである。

被控訴人宏助が昭和二三年に復員したのち、本件土地の小作料を収受したことについて徳助や控訴人らから異議の申出がなされず、また昭和四八年から昭和四九年にかけて、被控訴人宏助が本件土地の一部について、小作人と小作関係の解消について合意をなし、離作料を支払つたこと等の事実があつたとしても、被控訴人宏助が本件土地について自主占有を有し、或は自主占有を取得したことにはならない。すなわち、被控訴人宏助の小作料収受は、徳助が実弟の被控訴人宏助とその家族の生計の一助として、その収受を認めてきたにすぎないのであり、これが自主占有の徴ひようとは認められるべきものではないからである。

本件各土地は、小作人が占有代理人としてこれを占有していたのであるから、真実の所有者である徳助の代理占有を排除して被控訴人宏助が占有を取得するためには、占有代理人たる小作人らが本件各土地について、爾後被控訴人宏助のために占有する意思を表示するか、徳助が小作人らに対し爾後被控訴人宏助のために占有すべき旨を命じ、小作人らがこれを承諾することが必要であるが、このような事実は存在しない。

被控訴人宏助と小作人らとの間の離作問題は、いずれも控訴人らに隠してなされていたもので、本件訴訟中、被控訴人らの主張により判明したものであり、これにより自主占有が成立したものとはいえない(またその占有は公然の占有とはいえない。)。

2  本件各土地の公租公課は、徳助及びその相続人である控訴人らが納付してきており、さらに、昭和三六年三月二二日徳助の死亡により同人の相続問題が生じた際には、被控訴人宏助が控訴人らの納税保証人となつてその解決に協力し、また相続登記も被控訴人宏助の協力によつてなされたのである。このことは、本件各土地が、徳助の所有であり、控訴人らがこれを相続により取得したことを被控訴人宏助が認めていたからに外ならないのであり、被控訴人宏助の占有は自主占有ではなく、他主占有である(もし、被控訴人宏助がそれ以前に自主占有を有していたのであれば、被控訴人宏助は右の行動により、「時効の利益の放棄」((時効が完成後の場合))又は「権利の承認」((時効完成前の場合))をしたことになる。)。

3  被控訴人承継人らは、右相続による控訴人らへの所有権移転登記に関し、被控訴人宏助が右登記に協力したのは、取引先の丸紅飯田株式会社から本件各土地に早急に抵当権を設定するよう求められたため、所有名義を自己に変更することなく、取り急ぎ控訴人らへの相続登記を経由することにしたためであると主張するが、そうであれば、そもそも丸紅飯田株式会社への抵当権設定は、被控訴人宏助の社長としての地位と信用を守るための、専ら同人の個人的な事情によるものであり、同人が右登記手続をなす際には、自己の都合により控訴人らの所有権を認めながら、本訴において、これを翻し、自己の所有権を主張するのは禁反言の法理に反して許されないし、自主占有であるとの主張も許されない。

第四  被控訴人承継人らの認否及び反論

一  被控訴人宏助の本件土地の取得原因について

被控訴人宏助は、昭和九年五月一〇日、佐藤吉太郎、同ゆう夫婦の養女ると婿養子縁組した。これよりさきるは訴外村山俊雄との縁談があり、吉太郎はその所有にかかる本件1ないし34の各土地を右村山に贈与し、所有権移転登記を経た。しかし村山とるとの婚約は成立に至らず村山は右土地を吉太郎に返還することにしたところ、被控訴人宏助とるとの前記婿養子縁組成立にあたり吉太郎は改めて右各土地を被控訴人宏助に贈与し中間省略により昭和一一年七月二〇日村山から被控訴人宏助へ同年七月一六日売買を原因とする所有権移転登記がなされたのである。

また本件35ないし38の各土地はゆうの所有であつたところ、右婿養子縁組にあたり、ゆうから被控訴人宏助に贈与されたが、右各土地についての所有権移転登記はなされないままであつた。

二  取得時効について

本件1ないし34の土地については、被控訴人宏助から、本件35ないし38の土地についてはゆうから、それぞれ昭和一七年三月中に徳助へ贈与を原因とする所有権移転登記がなされていることは認めるが、被控訴人宏助は当時日本国内に居住していなかつたし、徳助は吉太郎の法定推定家督相続人でなかつたから、被控訴人宏助からも吉太郎からも、徳助への本件土地の贈与がなされるべき理由はない。

したがつて、徳助が自主占有を開始する余地はなく、ただ、当時、徳助は、病床にあつた吉太郎の代りに吉太郎家の実権を掌握していたところから、被控訴人宏助又は吉太郎のために、本件土地を代理占有していたにすぎない。そして、客観的、外形的に他主占有から自主占有に転換したと認められる事実も存しない。

登記名義人であつた被控訴人宏助の不在ないし吉太郎の病床にあつた間に、被控訴人宏助から徳助への所有権移転登記がなされたが、占有の状態には何らの変化もなかつたのである。

控訴人らは徳助が被控訴人宏助やその家族の生活を援助し、被控訴人らの生計の一助として小作料の収受を認めたと主張するが、右事実は否認する。

本件土地の小作料は吉太郎がその収受権を有していたところ、同人が昭和一七年一一月二七日死亡し、被控訴人宏助が家督相続によりその地位を承継したのであるが、被控訴人宏助が外地より復員するまでの間、徳助が事実上受領していたにすぎない。被控訴人宏助が復員した後、その家族の生活のために徳助から援助を受けなければならない事情はなかつた。被控訴人宏助より先に帰国していた家族が、徳助と同居して相互に援助、協力していたことはあるが、吉太郎は莫大な遺産を残し、家賃や地代の収入も相当額あり、被控訴人ら家族らは、被控訴人宏助が当時所属していた会社からの手当も送金されていたから、徳助からの援助を受けなくても十分生活できたし、被控訴人宏助が復員したのちも同様である。

次に、被控訴人宏助は米沢にほとんど居住せず、永く国外の戦地にあつたから、本件土地所有の意思を客観的、外形的に表示することが困難であつたが、復員後、所有の意思を明確にし、小作料を収受し始めた以上、それは自主占有の徴ひようであるし、小作人と話し合い、離作料を支払つて小作契約を解除したことも同様というべきである。

控訴人らは、被控訴人宏助の占有の公然性を争うが、同人の占有は、右離作の前後を通じ、間接占有から直接占有へと移行したものであり、公然となされたものである。

また、吉太郎からの相続にかかる本件土地の相続税の問題については、登記上本件土地の所有名義が徳助にあり、税申告と納付期限が短かいなどのため、真正な登記名義の回復により被控訴人宏助への所有権移転登記手続を経る時間的余裕がなく、登記に即した応急の策として控訴人らの名で申告、納税することにし、被控訴人宏助がそれに協力したにすぎない。実際にも被控訴人宏助がすべて自己の出捐により相続税を完納したのである。

徳助死亡に伴う控訴人らへの相続登記については、取引先の丸紅飯田株式会社からの抵当権設定の求めに応じてやむなく履践したものにすぎず、控訴人らの所有権を認めたものではない。

右抵当権は、佐藤織物株式会社の債務について、その債権者たる取引先に対して設定されているのであり、被控訴人宏助の個人的な事情に基づいて設定されたものではない。

三  被控訴人宏助の死亡と相続承継について

被控訴人宏助は昭和五八年七月一六日に死亡し、被控訴人承継人らが共同相続して、その権利義務を承継した。

理由

一本件各土地の所有権移転の経過について

1  原判決添附別紙目録記載の、本件1ないし34土地がいずれも、もと訴外村山俊雄の所有であり、また、同目録記載の本件35ないし38土地がいずれも、もと訴外佐藤ゆうの所有であつたことは、当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、本件1ないし34土地については、昭和一一年七月二〇日、村山俊雄から被控訴人宏助へ同年同月一六日売買を原因とする所有権移転登記が、更に、昭和一七年三月二四日、被控訴人宏助から控訴人らの父佐藤徳助へ同年同月二三日贈与を原因とする所有権移転登記が、それぞれなされており、また、本件35ないし38土地については、昭和一七年三月二八日、佐藤ゆうから佐藤徳助に対し、同年同月二七日付贈与を原因として所有権移転登記が、それぞれなされていることが認められる。

しかして、本件1ないし34土地について被控訴人宏助のためになされた右所有権移転登記の事実と後段認定の事実関係とに照らすと、これらの土地は、当時被控訴人宏助が東京に居住し、米沢には居なかつたものの、被控訴人宏助のために代理権を有する養父吉太郎が、実質的には吉太郎家の財産に帰属するものであるが、被控訴人宏助の所有とする意思のもとに、代理人として契約したことにより、被控訴人がその所有権を取得したものと認められ、この認定に反する証拠はない。

しかしながら本件35ないし38土地については、被控訴人承継人らは、被控訴人宏助が昭和一一年七月るとの婿養子縁組を契機として佐藤ゆうから贈与を受けてこれを取得したと主張するけれども、そのような所有権移転登記がなされた形跡もないし、また、後記認定のように、被控訴人宏助は昭和九年五月一〇日に吉太郎とゆうの養女ると婿養子縁組をしたのち昭和一六年応召するまで東京や大阪において生活しており、一方、吉太郎とゆうの養女よと大正一四年一二月七日婿養子縁組した徳助(控訴人らの被相続人)が米沢にいて吉太郎の家業を助けていたのであるから、昭和一一年七月一六日頃に被控訴人宏助が養母ゆうから本件35ないし38土地の贈与を受けるべき何らの生活状況の変化もその必要性が存したことも窺うことができないこと、また右事実に添う他の証拠もないこと、に照らし、右主張事実を認めることはできない。

2  しかして控訴人らは、控訴人らの被相続人徳助が昭和一七年三月二三日被控訴人宏助から本件1ないし34土地の贈与を受けたと主張しており、右各土地について、右の主張に符合する各所有権移転登記がなされていることは先に認定したとおりである。

(一)  そこで、右所有権移転登記がなされた事実関係等について検討するに、<証拠>を総合すると次の諸事実が認められる。

被控訴人宏助の養父であり、控訴人らの祖父に当る、佐藤吉太郎は、明治二〇年四月ごろ米沢市番正町(現在の西大通二丁目)において絹織物業を創業し、佐藤機業部の商号のもとに、事業活動を継続して、同市御膳部町(現在の松が岬二丁目)にも工場を増設して事業を拡張し、また、米沢市内や東京にも多くの不動産を所有して、米沢市内屈指の資産家であつたが、妻ゆうとの間に実子がなかつたところから、樋口源造、ツネ(吉太郎の従姉妹)の長女る(大正四年三月二九日生)を、生後間もない頃から引き取つて養育し、大正一〇年二月五日、自己ら夫婦の養子とする縁組をしたところ大正一四年一二月七日には、自己の事業の後継者とするため、妻ゆうの実家に当る高野亀松、すえの三女よ(明治三六年三月二三日生)を養子とする縁組をするとともに同日、取引先の製糸業枝松富松、の四男徳助(明治三一年七月二八日生、当時の名は徳雄、のちに、昭和四年七月七日徳助と名を変更、以下徳助という。)をよと婿養子縁組させた。

徳助は大学には進まず、婿養子となつて以来、機業に献身したいと志して妻よとともに養父母と同居しながら、専ら吉太郎の織物業に従事してきた。

他方、吉太郎は、養子にしていたるのために、先に、取引先の子である訴外村山俊雄を婿養子として縁組することを目論み、昭和三年五月一八日付をもつて、本件1ないし34各土地を同人に予め贈与しておくことにし、所有権移転登記を経ていたが、村山家側の事情により右の縁談が解消されるに至つたので、徳助の希望と勧奨により、徳助の実弟であり、枝松夫婦の七男たる被控訴人宏助(明治三九年四月二九日生)を婿養子に迎えることになり、昭和九年五月一〇日、ると被控訴人宏助との婿養子縁組がなされた。被控訴人宏助は、慶応大学を卒業して、縁組前はすでに東京共同ゴム株式会社に、その後転じて日本医療電機株式会社に勤務していたので、縁組後も妻るとともに、東京市亀有二丁目に吉太郎から買い与えられた約四〇〇坪の土地と地上建物を所有し、これに居住して独立の生活を樹てまた大阪方面にも転勤して会社勤めをしていたが、昭和一六年には応召し、翌年には満州に出征した。ると村山俊雄との縁組の成立を見込んで右村山に移されていた本件1ないし34土地の所有名義は、縁談の解消に伴い吉太郎の計らいにより、同人が手続を進めて、前述のように、昭和一一年七月二〇日、同年同月一六日付売買を原因として村山から被控訴人宏助へ所有権移転登記がなされた。ところが、昭和一六年頃から吉太郎の健康がすぐれず、その頃には、徳助が吉太郎の事業を事実上承継して、その実権を掌握し主宰していたが、同人の弟であり、遅く吉太郎家の婿養子となりまた吉太郎の事業には全く従事しないで独自の生活をしていた被控訴人宏助が、戸籍上先順位の養女であるると婿養子縁組して、吉太郎の法定推定家督相続人たる地位にあつたため、同人が吉太郎の死亡後その家産の全部を相続取得することになれば、徳助の事業の基盤が失われることになるところから、昭和一七年初め頃、吉太郎の存命中に、その財産を、徳助と被控訴人宏助とに適宜配分して、明確な区分をしておく必要が生じるに至つた。そこで、当時、被控訴人宏助は応召中であり、その意向をきくことができない状況にあつたため、徳助と吉太郎とが相談し、本件1ないし34土地は被控訴人宏助の所有名義に登記されているが、実質的には吉太郎家の財産であるところから、これをも含めて吉太郎の全財産について、これを徳助と被控訴人宏助とに配分することにし、東京市亀有二丁目の前記土地、建物、米沢市役所裏の三〇〇〇坪程の土地及び米沢市番正町所在の土地建物等を被控訴人宏助に残し、その余を徳助が取得することにし、本件1ないし34土地はかくして徳助が取得することになつたのに伴い、被控訴人宏助から徳助に贈与した形式により、また本件35ないし38土地も同様徳助が取得することになつたので、ゆうから徳助に贈与した形式により、前述のように、昭和一七年三月二四日及び同年同月二四日付により、徳助への各所有権移転登記がなされるに至つた。

しかして、吉太郎は同年一一月二七日死亡し被控訴人宏助が家督相続して戸主となり、吉太郎の所有名義のままに残されていた米沢市番正町及び塩野字金池地内の不動産を相続承継したほか、吉太郎から買い与えられた東京市亀有二丁目の土地、建物をも取得した。被控訴人宏助は、吉太郎の死亡の際は満州から一時帰国し、喪主として葬儀を主宰したが、葬儀後は家族を同伴して再び渡満し、終戦後先に家族が引き揚げて番正町の家(当時、徳助は同市御膳部町の工場敷地内に居宅を建築して移住していたので、番正町の家にはゆうと手伝いのみが住んでいた。)に身を寄せ、被控訴人宏助は昭和二三年六月頃に至つてシベリヤ抑留より復員して同家に落ち着き、その後同所で妻子と生活しながら、徳助の事業の手伝いをするようになつた。

その間、徳助は、父吉太郎から承継した事業について、昭和一八年二月には有限会社佐藤撚糸部を組織してその代表者に就任し、事業を拡張するとともに海軍管理工場として、製織事業をも行い、昭和二二年九月には、有限会社佐藤機業部に商号を改めたが、昭和二四年一一月には御膳部町の工場が火災により焼失するという災禍にあつたものの、専務取締役に就任していた被控訴人宏助の協力を得て、復興し、昭和二八年四月には株式会社に組織を変更して商号を佐藤織物株式会社に改め、被控訴人宏助との間の協力関係も良く、事業も順調に推移した。しかし、徳助は昭和三六年三月二三日に死亡するに至つたので、当時専務取締役の地位にあつた被控訴人宏助が同会社の代表者に就任し、それ以来、同人が同会社の事業経営を主宰し、徳助が創設したその他二、三の会社の経営をも引きついで主宰してきたが、昭和五二年に至り、徳助の相続人である控訴人清助との間に不和が生じたこともあり、佐藤織物株式会社の代表者の地位を控訴人清助に譲つた。

本件各土地は、以上の経過で徳助の所有名義に登記されたが、そのほとんどが吉太郎の存命中から訴外色摩哲夫、同鈴木竜雄らに賃貸され、同人らが小作してきた土地であり、被控訴人ら家族が、被控訴人宏助が外地より引き揚げてきたのちは同人が昭和二〇年頃以来昭和四七年頃(一部は昭和五二年頃)まで、小作料を収受してその生活の一部に充て、また、同人は昭和四八年から昭和四九年にかけてこれら小作人との間で本件土地の大部分を含む小作地について、自己の出捐により離作料を支払うことにより小作契約を解約し、さらに、徳助名義の土地の一部について訴外皆川某の土地との交換契約を結んだ。

被控訴人宏助は、徳助の死亡に際し、徳助の所有名義となつていた本件各土地等の不動産の相続税の申告、納税について相続人たる控訴人らに協力し、その納税保証人になるとともに、昭和三七年頃には、佐藤織物株式会社の取引先である丸紅飯田株式会社に対して極度額五〇〇〇万円の根抵当権設定登記をなす必要があつたところから、その前提手続としての控訴人らの相続登記について協力した。その結果、本件各土地を含む、徳助所有名義の不動産について昭和三七年五月二二日付により控訴人ら及び徳助の後妻よしの共同相続に基づく所有権取得登記が経由された。

しかし、被控訴人宏助はその後控訴人らに対して、右相続登記がなされた土地の一部について返還を請求するようになつたため、控訴人らがこれに応じ、昭和四九年五月二〇日、米沢市代官町(現在の城西三丁目)所在の八筆の土地(畑と宅地、甲第三九号証ないし第四五号証、乙第五号証)について、控訴人ら及びよしから被控訴人に対し、真正名義の回復を原因とする所有権移転登記がなされた。

以上のとおりの事実を認めることができ、この認定を動かすに足りる証拠はない。

(二)  以上の事実関係に照らして考察すると、被控訴人宏助の兄である徳助は被控訴人よりも先に吉太郎の養子よと婿養子縁組をしており、吉太郎の事業の後継者となるべきことを吉太郎も徳助も当然のことと考えてきたのに対し、被控訴人宏助は始めからその後継者とは目されておらず、自らもそのように考えてはいなかつたのに拘らず、被控訴人の妻るが徳助の妻よより先に吉太郎夫婦の養子となる縁組をしていたために、吉太郎や徳助の予期に反して法律上家督相続人となるべき地位に立つてしまつたのであり(改正前の民法第九七三条、第九七〇条一項二号、家督相続人たる女子と婚姻した婿養子(女婿)は、その縁組により当然家督相続人となる。これに反し、徳助が吉太郎夫婦の養子となる縁組をしたうえでよと婚姻していれば徳助が法定推定家督相続人となつたのである。)、また、被控訴人宏助は、婿養子縁組以来、養父吉太郎の事業には全く関与せず、家族とともに吉太郎とは別に他所で生活していたばかりか、応召出征により渡満したという事情があつたところから、このような徳助及び自己の境遇を考え、出征に当つては自己の所有名義であつても実質上は吉太郎家の財産である本件1ないし34土地を含めて、吉太郎がその所有財産を必要に応じて適宜処分することを了承してその処分権を吉太郎に委ねていたものであると推認するのが相当である。したがつて、吉太郎はその処分権に基づき、被控訴人宏助が将来家督相続により吉太郎の全財産を承継してしまうことによつて徳助の事業基盤が失われる結果となるのを避けるために、徳助と相談のうえで、徳助と被控訴人宏助とがそれぞれ財産の配分を受ける形となるように取り計らい、その方法として、被控訴人宏助から本件1ないし34土地を、ゆうから徳助へ本件35ないし38土地を贈与することにしたものであるから、これらの贈与は、被控訴人宏助が外地にあつて、直接右贈与の合意に関与しなかつたとしても、権限を有する吉太郎の行為により、有効になされたものというべきである。

(三)  もつとも、被控訴人宏助は、前認定のように、復員後本件土地等の小作料を収受して自己家族の収入としてきたし、また、昭和四八年から四九年にかけて、自らの出捐により離作料を支払つて小作人らとの間の小作関係を解消させたりしたのであるが、前者の点については、原審における控訴人清助本人尋問の結果と弁論の全趣旨により、終戦後の生活難の時代に、外地から引き揚げて生活基盤の脆弱な被控訴人家族の生活のために、当時、被控訴人宏助と円満な関係にあつた徳助が、生活の一助として、同人の家族に、さらにのちに復員して来た同人に、小作料の収受を好意により許容していたものと認められる(これに反する、原審及び当審における被控訴人宏助の本人尋問における供述は採用できない。)から、この事実をもつて、徳助が被控訴人宏助の本件土地所有権を認めていたことの徴ひようとして、前述の認定を妨げる間接事実とすることはできないし、また後者の点についても、以上の事実関係に照らせば、被控訴人宏助も、自己の出征不在中に徳助と吉太郎とにより財産配分がなされたことが、不本意ながらも止むをえない処置として、復員後これを了承し、円満な関係にあつた徳助と敢て事を構えることなく、また個々の財産についてその権利関係を明確に区別しないままに、小作料の収受等を許容され、徳助死亡後も徳助に代つてその事業を承継するとともに、控訴人らの相続に関する処理にも積極的に協力してきたのであるが、徳助死亡後一〇年余を過ぎた頃に至り、自己が小作料の収受を続けてきた状態が外形上小作人らとの関係において自己が所有者の如く見え、また小作人らもいつしかそのように理解するに至つた経緯もあり、さらに先の財産配分には直接に自己の意思が反映されていなかつたこと等から、自己が所有権者として振舞うようになつて、小作契約を解約したり、徳助名義ないしその相続人ら名義の一部の土地を他人と交換したりするに至つたものと推認されるのであつて、これも前者の点と同様に、前示の認定を妨げる根拠とはなし難い。

(四)  次に、前記認定の代官町の八筆の土地について、昭和四九年五月二〇日付により、控訴人ら及びよしから被控訴人宏助に対し、真正な登記名義の回復を原因とする所有権移転登記がなされたが、この点も前掲、<証拠>によれば、控訴人らが、徳助死亡後一〇年余を経たのちに、被控訴人宏助から土地の一部について所有名義の返還をしばしば求められたところから、これに応じて、一部の土地である前記八筆の土地を贈与することにし、ただ、税対策上、贈与とせずに真正な登記名義の回復を原因とする所有権移転登記手続に及んだものであることが認められるから、この点も前示の認定を妨げるものではない。

(五)  被控訴人承継人らは、本件各土地等の徳助の名義に登記された各不動産についての徳助死亡に伴う相続税の処理に関し、自ら協力し、自己の出捐により納税したことを、前述の認定に反する間接事実として主張している。

被控訴人宏助が控訴人らの相続税の申告及び納税の手続に協力したことは、前述の全般的な事実認定の中で認定説示したとおりであるが、これは、徳助のあとを継いで佐藤織物株式会社の代表者に就任した被控訴人宏助が徳助名義の不動産を将来にわたつて同会社の経営のために担保等として利用してゆく必要があるところからその保全にも影響する相続税の納付を妥当に処理するについて、自らの必要性があつたことと、徳助の遺族に対する情誼とに発したものと推認されるから、この協力の事実は必ずしも、被控訴人宏助が、徳助名義となつた本件土地等についてこれを自己の所有と認識して行動した結果とは云えず、前記の認定を妨げるものではないし、相続税の負担の点については、前掲控訴人清助本人尋問の結果によれば、佐藤織物株式会社の資産を処分した中から約二〇〇〇万円が支弁され(代りに徳助の同会社に対するほぼ同額の個人貸付金が放棄された)、これにより納税されたことが認められるのであつて、被控訴人承継人ら主張の事実は認め難い。

以上の次第で、控訴人らの抗弁は理由があり、本件1ないし34土地は被控訴人宏助から徳助に、本件35ないし38土地はゆうから徳助に各贈与されたものというべきである。

二被控訴人承継人らの時効取得の主張について

被控訴人承継人らは、本件各土地について、昭和二三年以来これを占有してきたとし、これを理由に一〇年又は二〇年の経過により本件各土地の取得時効が完成したと主張している。

しかし、前記認定のように、本件各土地の大部分は徳助の所有となつた当時から色摩哲夫、鈴木竜雄らに賃貸され、同人らが小作していたものであつて、被控訴人ら家族が外地から引き揚げてからしばらくはその家族が、またのちに被控訴人宏助が復員して、被控訴人宏助が徳助から許容されてそれぞれ小作料を収受するようになつたものの、本件各土地の占有には何らの変化もなかつたのであり、被控訴人宏助が小作料の収受を継続しているうちに、小作人らが被控訴人宏助を小作地の所有者と意識するようになり、また被控訴人宏助自身も自己所有の意思を有するに至つたとしても、これら関係者の主観的意思はどうあろうと、小作人らの本件土地の占有は徳助又はその相続人のための代理占有としての性格を変容するものではない。してみると、被控訴人宏助が本件各土地を占有していたことを前提とする取得時効の完成は認められないし、かりに、同人が本件土地を占有していたとしても、それは徳助から許容されての他主占有に他ならず、その後被控訴人宏助が所有の意思を有するに至つたとしても、新権原に因り更に所有の意思を以て占有を始めたものでない以上、主観的な意思のみにより自主占有に転化することはないのであるから、結論は同様である。

したがつて、時効取得の主張は認められない。

三以上の次第で、被控訴人承継人らの請求は理由がなく、これを棄却すべきであるから、これと結論を異にする原判決は不当であり、本件控訴は理由がある。

よつて、民事訴訟法三八六条に従い原判決を取り消して被控訴人承継人らの請求を棄却し、控訴費用の負担につき同法九六条、八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官田中恒朗 裁判官伊藤豊治 裁判官富塚圭介)

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